『モレリア』物語 ~ミズノのサッカースパイク開発に魂を込めた男~ 下
多くのブラジル代表の足元を支えた『モレリア』。契約したカレッカ選手がヨーロッパへ移籍したことで、『モレリア』の活躍するフィールドはさらに広がっていく。やがてその影響は日本へも。そして1993年Jリーグ開幕。ミズノ社内でもサッカーに関わる者が増え、事業も拡大していくことに。その中心にある『モレリア』が今も多くの選手に支持される秘密とは。そしてこれからも伝えていきたい事とは何か。
1.南米からヨーロッパへ渡ったことで進化する『モレリア』
水島選手からブラジルのトップ選手へ『モレリア』の良さが伝わり、世界大会でブラジル代表のカレッカ選手からは「神が作ったシューズ」だと言われ、契約の申し出があった。当時の安井さんにもすぐに信じられることではなかったが、これがサッカーの本場ヨーロッパへ進出する第一歩となった。カレッカ選手は世界大会での活躍により、世界的なストライカーの地位を確立、ヨーロッパのクラブチームへ移籍した。同じころ安井さんもヨーロッパで戦う選手に合うスパイクを開発すべく、年間100日以上ヨーロッパへ出張し、現地の気候、グランド条件などから求められるスパイクを現地で作れる体制を整えていった。そこで生まれた『プロフェッショナルモデル』はヨーロッパで多くの選手から求められることになる。
1990年当時、ミズノはイタリアでヨーロッパ市場向けの生産を始めていた。その核となったのがこの『プロフェッショナルモデル』であった。世界大会でブラジル代表の足元で躍動したミズノのスパイクへの関心が一気に高まり、セリエA に所属する選手から、イタリアのミズノの販売代理店へ毎日のように「試してみたい」という問い合わせが入った。多くのサッカーブランドがひしめく欧州で、ミズノのスパイクが認められていく。シンプルで機能美に優れた本物のスパイクのニーズはここにも確実にあったのだった。欧州で活躍する大柄な選手にも合うように安井さんは『モレリア』をアレンジした。この欧州版『モレリア』はイタリアやイングランドの市場にも確実に浸透していき、年間で約5万足を売り上げた。
ヨーロッパでデビューした『プロフェッショナルモデル』
2.Jリーグの選手へも影響を与えた前年の国際試合
日本でもプロサッカーリーグの誕生が近づいた頃、『モレリア』はヨーロッパのトップリーグの選手や本場の市場で認められ、それが遠く日本のトップ選手へも影響を与えていく。当時日本で唯一見ることができた国際大会(ヨーロッパと南米のクラブチャンピオン同士の試合)で1992年、1993年と南米クラブチャンピオンのサンパウロF.C.が二連覇を果たす。そのチームの多くの選手が『モレリアⅡ』を履いていた。それを目の当たりにした日本のトップ選手の多くがミズノのスパイクを選び、結果Jリーグ開幕の前年、日本代表チームにおけるミズノのシューズシェアは、実に45%となる。実は1990年のイタリアで行われた世界大会でブラジル代表の多くが使用した『モレリア』が、1991年に発売された『モレリアⅡ』のベースとなっており、またヨーロッパで開発された『プロフェッショナルモデル』はのちの『Jリーグモデル』のベースとなっている。
当時の『モレリアⅡ』は今発売しているものと殆ど変わらないと言える。今もJリーガーをはじめとする多くの選手に愛用されている『モレリア』だが、その理由を安井さんはこう分析する。「ボールを蹴って、相手ゴールに入れるというサッカーの原点が変わらないように、スパイクも当時から今も求めるものは基本的には変わっていない。それら要求されるものを外さないからだと思う。決して商品特長が尖ったものではなく、平均的に高水準でそれらが満たされているからだ」と。その言葉にはミズノがサッカースパイクの市場で最初に戦う時から、“選手が何を必要としているのか?“、”選手のために何ができるのか?”を常に追求し、求められるものは変えることなく、突き進んできた自信が感じられる。
『モレリアⅡ JP』
3.圧倒的な情熱が世の中を動かす
「なくてもいい」と思われていた日本のサッカースパイクブランドを、ブラジルから始まりヨーロッパで受け入れられ、日本でも確実なポジションを確保するまでに育てた安井さん。これまで多くのトップ選手の声を直接聞き、スパイク作りを続けてきた安井さんは、今もモノ作りに携わっている。ヨーロッパでのサッカースパイクの生産、販売を軌道に乗せ1997年に帰国した後も、マーケティングをする年齢ではないとし、そしてこれまで見てきたこと、知っていることを生かすには、モノ作りの現場に近い方が良いと思ったという。そんな安井さんにとってミズノは仕事がやりやすかったのだろうか。
「こうしたい、ああしたいと言えばやらせてくれる環境がある。入社した時から、言ったらやらせてくれた。18,19歳にしてそれを感じた。思いが強いというのを当時の上司が認めてくれたのも大きい。一人の思いをやらせてくれる会社だと思います」。
後輩たちに伝えたいことも聞いた。
「気概があれば社内でそれを表現すること。周りで見ている人がいて、オーラが出ているとサポートしてくれる土壌がある。寄ってきて助けてくれる。強い思いを持ってやっていたらいつか絶対成功する。一生懸命やっていると自然と人が寄ってくる。そして救世主も現れる」。
20代の安井さんにとって言葉も通じなかったカレッカ選手は救世主だったのだろう。その救世主とは今でも友人として連絡を取り合う仲だという。(おわり)
2017年2月サンパウロでカレッカ選手と
ちょっとブレイク
信念を持って続けることの大事さ
1985年の発売後、2~3年で『モレリア』が売れなくなる時期があったそうです。その時、安井さんは「新しいものを作ろうかな」と思い、そのように発表しようと思っていた会議に向かう前の打合せで、信頼できる先輩に相談しました。その時先輩から言われたのは「ブラジル代表が5点も入れたスパイクなんだ。売れていないのは知られていないだけ。止める必要はない。」この一言で、『モレリア』のコンセプトである「軽く、柔らかく、素足感覚」は守られました。