『モレリア』物語 ~ミズノのサッカースパイク開発に魂を込めた男~ 中

モレリア物語 中

「トップ選手に履いてもらえるスパイクを作る」という第一歩を踏み出した安井さんは、その後も『モレリア』の改良に情熱を注いでいく。水島武蔵選手が認めた『モレリア』がブラジル人プレーヤーに浸透し、そして世界の舞台で多くのプレーヤーに『モレリア』は履かれることとなっていく。

若くしてブラジルに渡った水島武蔵選手と共に生み出した『モレリア』の最初の一足が1984年に完成。ここで二人の出会いを振り返ってみたい。水島選手が最初に安井さんに会った時「自分もブラジルでプロになるという夢を持ち、安井さんも世界一のサッカースパイクを作るという夢を持っていると聞いて、お互いすぐに意気投合しました。サッカーをやっている方で年齢も近かったこともあり、自然な形で会話も弾みました」と語ってくれた。サッカー大国ブラジルの選手が求める軽さやフィット感、それこそが自分の作りたかったものだと確信を得た安井さんは水島選手にその後50足単位で3回ほど試作品を送り、水島選手が納得いくまでやり取りがされた結果だった。
今もミズノ社内に根付く「選手が求めるものを作る」という原点もここにある。

水島選手と出会った頃 お互い20代

水島選手と出会った頃 お互い20代

1980年代日本リーグのトップ選手の多くは海外製のスパイクを着用していた。「日本メーカーとして日本のトップ選手にミズノのスパイクを履いてもらいたい」という安井さんの長年の思い、そんなタイミングで『Ⅿライン』から『RunBird』へ新しいブランドがデビューする。このタイミングで水島選手から安井さんの作ったスパイクが認められるという転機が訪れた。
水島選手との契約、そして『モレリア』のデビューと少しずつサッカーへの理解が深まったとはいえ、まだまだ社内での信頼を得られていない状況であった。ところが、ある一つのスパイクの発売を機に社内の風向きが変わった。安井さんは1986年6月『サンパウロ634』という中高生向けの練習スパイクを企画、発売した。それまで全て黒だったスパイクの常識を覆すカラースパイクで、白いアッパーに黒と赤のラインがデザインされたものだった。

カラースパイクの『サンパウロ634』を定番商品として展開することに社内からは「大丈夫なのか?」という声もあったという。そんな状況の中、展示会が行われ、案の定営業マンからの注文を集計すると、従来からの黒ベースのデザインのスパイクへの注文が中心で「黒:白=7:3」。サッカーの事がわかっていない営業マンが従来のカラーを多めに盛った数量を出してきたのだった。しかし生産会議で安井さんはその逆で生産するよう強く進言した。安井さんには日頃のお店との十分なヒアリングから得た情報により、「白は売れる」という確信があったのだった。いざ発売となった途端、あちらこちらで白の要望が激増。営業は混乱したが、生産部門からお店には白スパイクがどんどん出荷され納品されることとなり、結果、安井さんの言った通りとなり、営業の信頼を勝ち得ることとなる。

『サンパウロ634』当時白メインのスパイクは珍しかった

『サンパウロ634』当時白メインのスパイクは珍しかった

なぜこのカラーを企画したのかを安井さんに尋ねると、「『モレリア』はコンセプトを明確にしており、武蔵君が所属するサンパウロF.C.のカラーで、白×黒×赤はスポーツにおける3原色と言われており、採用するにはもってこいのカラーだった」という答えが返ってきた。このトリコロールは今の『モレリア』にも受け継がれている。
そしてこの『サンパウロ634』は日本市場、いや世界市場も含めたカラースパイクという新たなマーケットを切り開いた一足であった。

日本市場でのミズノ製スパイクが存在感を増していく中、『モレリア』がサッカー王国ブラジルでも着実に認められていく。安井さんへのリクエストで何度も改善を重ね完成した『モレリア』について水島選手は「本当に軽くて、柔らかく、素足で履いているような感覚が得られる。これなら同僚も含めて多くの選手へ日本製のミズノのスパイクの良さを伝えられる」と当時の思いを語ってくれた。サンパウロF.Ⅽ.には当時多くのブラジル代表選手が所属しており、水島選手を通じてミズノのスパイクが渡っていくことになる。水島選手は当時の様子を「世界のフットボールを知る選手たちに渡さないのは不自然でした。同僚たちにこの素晴らしいスパイクを履いて欲しいし、ミズノのスパイクを広めたいという思いで渡していましたが、そのうち彼らから『履きたい』という声が多くなり、交通整理が大変でした」と当時の状況を振返る。そんな中、水島選手の同僚であり、当時足に故障をかかえていたカレッカ選手が、気分転換を兼ねて水島選手が渡した『モレリア』を履く。ブラジル代表のストライカーが、そして1990年イタリアでの世界の舞台では代表チームのスタメン11人中7人が『モレリア』を履く。安井さんが目指したものが現実となった瞬間だった。(つづく)

ブラジル代表のカレカ選手が最初に履いた『モレリア』

ブラジル代表のカレカ選手が最初に履いた『モレリア』

ちょっとブレイク

『モレリア』という名前の由来

 知っている、聞いたことがあるという人もいると思いますが、『モレリア』というのはメキシコの都市名です。1984年の開発当初から新しいスパイクには1986年の世界大会の開催が決まっていたメキシコの地名を付けると決めていたそうです。スパイクには取替式と固定式があり取替式は大会のメイン会場である『メキシコシティー』と名付けられ、対して固定式はなかなかいい名前が思い浮かばず、ずいぶんとメキシコの地図を眺めてあれこれ考えたそうです。そこでメキシコの中心部近くに『Morelia』 という小さな町を見つけました。メキシコのイメージは直ぐに浮かばないものの、意外と心地よく、しなやかな響きがあると直感して決めたそうです。ニックネームに関しては商標権のこともあり、調査をして決める必要がありますが、かなりの量のニックネーム候補を商標担当部門に調査を依頼したそうで、そこの部長から安井さんの上司にクレームが入ったこともあったそうです。