ありがとう、さようなら、ミズノ淀屋橋店 解体前に、ミズノ淀屋橋店を大解剖!!
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ミズノ淀屋橋店は1927年7月(昭和2年)に「美津濃運動用品株式会社」の本社屋として、商いの町 大阪淀屋橋に完成しました。戦火にも耐え、2021年の6月で丸94年になるのですが、淀屋橋駅西地区第一種市街地再開発事業に伴い惜しまれつつも幕を下ろすことになりました。そこで、改めてミズノ淀屋橋店について、色々調査してみました!
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先ず建物調査に入る前にミズノ淀屋橋店竣工に至る経緯を少しお話します。
ミズノ創業者水野利八は1891年の濃尾震災にて被災した水野家の復興のため、僅か11歳で奉公に出ます。19歳の時、奉公先の京都で野球の試合を見てから野球の虜となり、日露戦争後に弟利三と「水野兄弟商会」を大阪北区芝田町に創業しました。それからというもの、利八はスポーツの振興発展に邁進するとともに、水野家の復興の証として『100尺のビルを建てる』という目標を立てました。しかしながら、「個人的な責務を果たして安心してはいけない。はるかに大きい社会的な責任(スポーツ産業の発展)が残っている」と自戒の念を込め、敢えて98尺8寸の本社屋を完成させました。それが、ミズノ淀屋橋店です。 「利八 13歳」
それでは、94年前に建てられた西洋建築ミズノ淀屋橋店を大解剖!
設計者は岡部顕則氏。当時様々な劇場やビル、学校等を手掛けられた設計士でした。建築当初から2回増築しているので、今の外観からは全く分かりませんが、店内や屋上は今もなお昭和2年の面影が随所に残っています。
1階は他の階より天井が高く作られていて、店舗奥階段の下段3段は美しく見えるよう敢えて広さを変えており、心理的に高揚感を与えるのだとか。昔ながらの百貨店のイメージですね。
廻り階段の人造大理石の腰板は階によって色が違います。当時店舗として使用していた階は色付の腰板になっています。柱は面取りをして、廻り縁も全て左官の細かい手仕事です。
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北側の階段の中2階踊り場手摺は、今では珍しい1枚物の厚さ4.5センチもある黒大理石です。更紗という柄が入っていて今となってはとても貴重なものらしいです。
踊り場から吹き抜けの1階を見渡せます。
そして、当時は関東大震災後ということもあり、梁が現在の基準よりも短い間隔で入っているそうです。そして、梁が柱と接合する箇所の下部に斜めの補強材「ハンチ」が入れられ強度を高めているそうです。以前から「柱の多い建物だなぁ」とは思っていましたが、理由を聞いて納得です。
屋上に行ってみましょう。(一般開放はしていません)
これはエレベーター室です。アーチのデザインや3連の小窓はロマネスク風デザインの特徴です。軒のキュビズムデザインや、軒のじゃばら形状はドイツ表現主義といわれるデザインだそうです。なんだか、難しいですね(笑)
窓は観音開きのスチールサッシになっており、網入りガラスになっています。
この屋上から眺める当時の大阪の町並みは、どんな景色だったのでしょうね。
今は周りに高いビルがそびえたち、飲み込まれそうです。
採算度外視で流行りのデザインや技を取り入れた贅沢な建物となっていた淀屋橋店。
淀屋橋のシンボル的な建物だったのでしょうね。集客のために7階8階を大食堂にし、とても繁盛していたそうです。『ライスカレー』は女性や子どもに人気で、特注の優勝カップに見立てた特大ジョッキ『ホームランジョッキ』は学生やサラリーマンにとてもウケていたようです。
また、今では当たり前となっているふんどし広告(懸垂幕)や、可愛い制服を着たエレベーターガールも利八のアイディアのようです。
荷車で配送する時代に、オートバイにリヤカーを取り付けて街を走り評判を呼んでいたようです。「ミズノさん、ハイカラなことしてはるなぁ」と当時の人は言っていたのでしょうか?
日本にスポーツを普及させるため、様々な発信をし続けてきたミズノ淀屋橋店は閉店になるのは寂しい思いもありますが、これからも水野利八のクチグセ「ええもんつくんなはれや」を胸に、ミズノグループ社員一丸となって、スポーツの力で世界中の人々を幸せにすることに貢献していきます!!「ええもんつくりまっせ!」