~あたたかい素材を作りたい~ 吸湿発熱素材『ブレスサーモ』開発物語
今、当たり前の様に巷で売られている様々な綿や合成繊維の“あったか素材”。これらの素材が出現する前の冬場のあったか素材といえばウールが主流。もしくは肌触りを工夫した綿素材など。そこに一つのある繊維が、今までの”あったか素材”に一石を投じた・・・。
1992年、ミズノで一人の男※1が「数年後の国際大会までに、なんとかスキーウエアを今よりも暖かくできないか」と頭を悩ませていた。そんな男の元にある日、代理店から“乾燥剤”の提案があった。
「ミズノさん、これある合成繊維メーカーが開発した“乾燥剤”なんですけど、シューズの湿気取りとかにどうですか?」
男が手に取ったのはファイバー状になった乾燥剤だった。
「うーん、今乾燥剤は特に求めてないけど・・・ ちょっと預かっとくわ」
そう言って、特に乾燥剤として商売の話は進むことはなかった。
※1現在、定年退職しており、以後Oさんとする
それからもOさんはスキーウエアを暖かくするための素材作りに悩み、一人会議室にこもって考えていたところ『そう言えばお菓子の封をあけたら乾燥剤って熱くなるよな』と脳裏を過ったと同時に、以前代理店から預かった乾燥材を取りに行き、机にあったペットボトルのお茶をかけてみた。
『熱い!熱くなった!繊維が熱くなった!』
これがミズノの吸湿発熱素材ブレスサーモの原点だった。
ウールも吸湿すると発熱をするが、ブレスサーモは約3倍の発熱性能※2があり、当時存在する繊維の中で最も発熱量の高い部類にあったのだ。※2ウールとの比較 ミズノ調べ
この時Oさんはまだブレスサーモの数値的なポテンシャルの高さを知る由もなかった。しかし、人の体からは常に微量な水分(水蒸気)が発散されていることはわかっていた。
『人からの水分を吸湿して発熱する繊維を作る!』 Oさんの戦いが始まった。
当初持ち込まれたファイバー状の乾燥剤は産業資材用として生み出された繊維のため、衣料向けに用いるにはハードルが高かった。衣料の場合、着用や洗濯による揉みや引張などの物理的な力がかかるため、単純に中綿として衣服に詰め込むだけでは、スポーツウエアとして販売できる完成度にはならなかった。
改良に1年間もがき苦しんだ末の1993年、「吸湿発熱保温品」としてブレスサーモの特許申請にこぎつけた。冒頭に記述した”あったか素材“が誕生した瞬間だった。
ブレスサーモの名前の由来は、「BREATH(呼吸)+THERMO(熱)=BREATHTHERMO」
1994年、Oさんが目標にしていた世界大会のスキーウエアに中綿としてブレスサーモが使用されたが、納得のいくものにはなっていなかった。ウエアの状態にして充分に発熱体感を得るにはまだまだだったのだ。そして追い打ちをかけるように、この頃からスキー市場が低迷してきていた。
そこでブレスサーモの性能を活かすため、アウトドア市場に向けた商品化を準備した。
しかし、当時の合成繊維産業の構成としては、合成繊維メーカーが「糸作り」「編み織」「染色」までを取り仕切り生地にしていた。その生地をメーカーが採用し、「縫製」を施し「アパレル」にして販売していたのだ。通常ミズノでは、原綿から生地までを開発していく事は難しいと考えられていた。
Oさんも当然の様に大手合成繊維メーカーに「このファイバー状の乾燥剤を糸にして、編んで生地にしてほしい」と依頼をかけるが、「アパレルには使えない」と断られてしまった。この繊維はアパレル用に加工するには非常に弱い繊維だった。すぐに切れてしまうのだ。
しかし、あの熱くなった瞬間を忘れられなかったOさんは、今までメーカーがほとんど足を踏み入れなかった「糸作り」「編み織」の領域にまで踏み込むことにした。原綿から糸・生地にするため一緒に取り組んでもらえそうな紡績工場、編み織工場の調査から始まり、ブレスサーモの機能性と可能性に共感してもらえた工場、スタッフと幾度も試作を繰り返した。何度も何度も繰り返しては失敗した。「糸作り」「編み方」にも難航したが「染色」でも試練が待ち構えていた。染まらないのだ。
ブレスサーモの初期の原綿はフラミンゴの様なピンク色で、それに色を付けたくても染まらないのだ。
『厄介なものに手を付けてしまったな・・・』と何度も思いながらも諦めきれなかった。
最初のブレスサーモ原綿 ピンク色が濃い
編み方、染色方法をどうにか納得のいく状態に持っていくまでに途方もない労力と費用を費やした。そこまで賭けてもモノになる素材だと確信していたのだ。
そうして約3年の月日を費やし、1997年にアウトドア用アンダーウエアを販売できる状態に達した。世の中に吸湿発熱機能のアンダーウエアが無い時代にブレスサーモアンダーウエアを商品化できたため、非常に反響が大きかった。しかし、課題は膨大にあった。一例として、当時“ババシャツ”“オバシャツ”と言われていたアンダーウエアと肌触りを比較すると“ごわつき感”があったのだ。
しかし、吸湿発熱機能の新しさと体感できる本物の温かさの点から、ブレスサーモは消費者に認められ、2001年には100万枚の販売数を突破(ミズノ調べ)。ブレスサーモが次のステージに行くには、糸・編み方・染色・肌触りを向上させる技術開発を行い、アンダーウエアとしての完成度を上げる必要があった。
そして翌年の2002年に商品力強化のため開発陣に加わった新入社員の白石さんは、以降Oさんと共に更なる改良に向けて奮闘することになるのだった。
開発担当 白石さん
白石:兎に角、日々どのように加工すれば色んな色に染めることができるか、肌触りや風合いを柔らかくできるか、試行錯誤の連続でした。
初期の原綿はかなり濃いピンク色だったので、スポーツメーカーらしくない製品の色目しか提供できませんでした。原綿の製造工程を変える事で色を薄くする事は可能でしたが、ブレスサーモの最も大切な吸湿発熱性能の低下や繊維の強度がより弱くなるなど、一筋縄ではいきませんでした。ラボで計り知れない数の試作をしながら条件を見出し、性能や物性を担保しながら、より綺麗な黒・白・鮮美色の製品開発が可能なブレスサーモ原綿が出来上がりました。
糸は生き物のようにデリケートであり、影響が大きい要因を解明し、厳密に管理した環境で均一性が向上した糸を開発する事に成功しました。
当時を思い出しながら嬉しそうに語る白石さんだが、原綿の成功の次に立ちはだかったのは編み方と染色だった。
白石:ブレスサーモ糸は伸びないんです。伸びない糸を使って伸びる生地を作ることに苦労しました。単純に伸びる糸を組み合せると良いというモノではありませんでした。そして、組み合わせる糸、編地設計を工夫して生地が伸びるようになったとしても、ブレスサーモ糸は毛羽が多いため生地表面に毛羽が出てしまい、商品価値が低いモノになってしまいます。通常の編地設計のセオリーではない手法を見つけ出して、伸びがありながら、毛羽感の無いすっきりとした生地を開発できるようになりました。これは均一性が向上した糸の開発ができたからこそ、編みの自由度が増えて様々な編地設計をトライアルする事ができました。
編みが出来た後は染色工程に移ります。色が均一につきにくいため薬剤を投入するタイミングや染色温度の上がり方、染色機内での生地にダメージを与えない動かし方まで工夫しました。発色性と風合いを両立する手法を確立しました。
左:初期の原綿 右:現在の原綿
完成したブレスサーモ糸
1コーンあたり約20着分のアンダーウエアができる
白石:従来から綿やレーヨンの発熱は周知の事実でした。しかし、セルロース系の綿やレーヨンは水分を吸収すると水を繊維内に保持する素材です。すると汗冷えに繋がります。その点、アクリレート系の吸湿発熱素材のブレスサーモは、他の素材には無い非常に大きな吸湿発熱性能を持ちながら、吸湿→発熱→保温し、余分な水分は発散するので、衣服内を快適な状態にキープできるのです。
最後に、白石さんは力強く言った
白石:吸湿発熱とうたっている素材の中でブレスサーモは、ポテンシャルが高い繊維です。そこは自信を持っています!
ブレスサーモ開発当時は糸にするのも苦労したブレスサーモ。
今はありとあらゆる製品が揃っています。
https://jpn.mizuno.com/breaththermo
開発に携わった者たちの苦労の結晶を是非、お試しください。