『モレリア』物語 ~ミズノのサッカースパイク開発に魂を込めた男~ 上
世界のスポーツで最も多くの競技人口を誇るサッカー。日本では1993年にプロ化され、以来多くのチームが誕生しています。
今やプロ野球と人気を二分するスポーツとなったサッカーですが、ミズノがサッカーに本格的に取り組んだのは、ある社員が入社したことがきっかけでした。
目次
1.卒業レポートのテーマは「サッカースパイクの他社比較」
入社43年目の安井敏恭さん(60)。今や世界中の多くのフットボールプレーヤーが愛用する『モレリア』の生みの親です。
安井さんは中学、高校とサッカーに熱中し、高校の卒業レポートでは各スポーツメーカーのサッカースパイクについて書くほどであった。安井さんには当時のミズノのスパイクに対して良い印象は無かった。ところがそんなミズノに先輩の縁もあって就職することになり、入社早々、ミズノのスパイクを酷評したレポートを先輩社員に見せたことがきっかけで、シューズを企画する部門に配属になる。当時を振り返って安井さんは「スパイクの批判は簡単でしたが、実際に自分でシューズを作るとなると、試行錯誤の連続でした」。
この時が安井さんとミズノの未来が開いた瞬間だった。
中津商業高校時代 後列右から2人目が安井さん
2.「これからのミズノにサッカーは必要不可欠」なのに・・・
ミズノで最初に安井さんが配属されたのは、シューズを企画開発する部門。最初の2年は先輩についてシューズ作りの基本を学び、3年目にサッカーの主担当を任されるようになる。主担当といっても、周りにサッカーの経験のある社員がほとんどおらず、実際はシューズ開発もデザインも他の競技の担当が兼任でやっているような状態だった。安井さんは「ならば設計もデザインも自分でやる」とポジティブに捉え、サッカースパイクのアッパー構造やソールデザインを作っていった。安井さんが入社する前、当時のミズノのスパイクは「世の中になくてもいい存在」だった。それを自らの手で変えていきたいという思いが、行動になって表れていく。
さらに商品自体にももちろん原因はあったが、安井さんにはほかにも売れない原因があるとことがわかっていた。ミズノは当時、野球品が売上の中心を占めており、サッカー品の売上はわずかという状況。サッカーについて真剣に向き合う社員がほとんどいなかったのだ。安井さんは振り返る。「当時の営業は野球には精通していましたが、サッカーの事は全く知りません。専門店開拓などに行ってもらえる方は殆ど皆無でした。ですので、私自身で新規取引先を開拓し、お店に定期的に出向き、在庫を調べ、受注を取ることまでやりました。それらは、商品ヒアリングのための訪問でもあったので、全く負担には感じませんでした」。若くしてミズノのサッカーの全てを担当することになったことが、その後の社内外での安井さんの存在感を大きくしていく事になる。
入社8年目 サッカースパイクの主担当だった頃
3.全てを注ぎ込んだ1冊の手作り資料
1984年スパイクのラインが『Mライン』から『RunBird』へ変わり、ミズノも大きく変わろうとしていた時代。サッカーへの考えも少しずつ変わってきていたとはいえ、当時の商品決定会議では、営業部門の幹部クラスはサッカーの事を理解していないため、意見も何も出ない。‶価格と商品への文句だけ“という状況だったという。“サッカーの時代は必ず来る”と信じていた安井さんは、サッカーがどんなに魅力的で将来性があり、今ミズノが取り組むべき事業であるかを周囲に説明。そしてまずは本物のサッカースパイク作りの必要性を訴えるため1984年「PLAN OF STRATEGY MAP THE FOOTBALL」(サッカー戦略マップ)と題した116ページにわたる手書きの提案書を作り上げた。そこには、サッカーの起源から、当時のサッカー人口の多さ、既にサッカーが根付いていたヨーロッパや南米の市場の状況、サッカー品を扱うスポーツ品メーカーについての情報がまとめられていた。さらに、安井さんが思い描く、企画と開発ポリシー、中長期の販売計画、販売数10万足を達成するための具体的な販売促進計画が事細かく記されていた。
いちから調べたこの世に一冊だけのこの戦略マップを手に安井さんは社内を説得してまわった。
サッカー戦略マップ
4.ブラジルのサッカースタイルが生んだ『モレリア』
サッカーに対して上司を含めた社内の理解が少しずつ深まっていく中、安井さんはモノ作りからプロモーション関連までトータルで任される立場になる。そこで最初に手を付けたのはやはりスパイク作りだった。「トップ選手にも履いてもらえるスパイクを作る」という信念のもと、安井さんが注目したのは、ブラジルのサッカースタイルだった。「柔らかなタッチでボールをコントロールするスタイル、体格も日本人に近く、器用なところが日本人に共通している」と安井さんは直感した。当時日本人向けにシューズを企画していた中で、ブラジルへ渡った水島武蔵選手との契約を会社に進言、OKを得た。水島選手は「軽くて、柔らかいスパイク」を求め、ブラジルに居る水島選手に安井さんは試作スパイクを送り続け、意見を聞き改良を重ねた。ついに1984年12月水島選手から言われた言葉が安井さんには忘れられない。「奇跡が起きたね」。『モレリア』が産声を上げた。(つづく)
最初に作られたモレリア
ちょっとブレイク
カタログのモデルも自ら務めるくらい、プロモーション予算も無かった
若くして当時小さいながらもサッカー事業全般のかじ取りを任された安井さんは、自らカタログの表紙のモデルを務めている。「私が担当する前のカタログに映っている足は、どう見てもサッカー選手の足には見えなかった。私の足はまだ少しはサッカー選手の太腿だった」と笑いながら語ってくれた。少しでもスパイクの開発に費用を回すための苦肉の策だった。
安井さんがモデルを務めた1983年のサッカー品カタログの表紙