SPECIAL INTERVIEW
斎藤立選手 柔道とのつながりは切っても切れないもの

父の偉大さを実感して
悔し泣き

父の偉大さを実感して悔し泣き

ジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社所属の斉藤立は、金メダリストの仁を父に持つサラブレッドだ。
「父が柔道をやっていて、3歳年上の兄が始めて、自分も自然に始めました。気がついたら道場に居たような感じです」

小学校6年時には、全国大会でオール1本勝ちによる優勝を成し遂げる。ところが、本人の気持ちは必ずしも前向きでないのだ。
「小学校の時は練習が厳しすぎて、何でここまでやらなきゃいけないんだろうと思っていました。正直に明かせば、柔道を辞めたかったんです」

柔道と真剣に向き合うきっかけは、父が与えてくれた。
「中学1年の1月に、父が亡くなりました。父とは小学生の頃に『五輪で優勝する』と約束をしました。そう言ったからには守らないといけないですし、父が卒業した高校や大学の関係者の方々、全日本柔道連盟の関係者の方々が、『斉藤さんのために頑張ろう』と言ってくれているのを聞いて、自分がやらなあかん、という気持ちになったのです」

中学1年の少年にとって、父との別れはあまりに厳しい現実だ。喪失感を抱えた日々を過ごしていたなかで、全日本柔道連盟が主催する年代別の強化合宿へ向かった。
「自分たちを指導してくれる雲の上の存在の方々が、父の教え子だったということを知りました。父の偉大さを改めて実感して、亡くなったことがむちゃくちゃ悲しくて、トイレで泣きました。そこで本当に、オレが絶対にやらなあかん、という気持ちが芽生えました」

父の偉大さを実感して悔し泣き

偉大なる父との別れを乗り越え、斉藤は柔道に打ち込んでいく。中学生年代は成長期と重なり、学年の違いがそのまま結果に映し出されることが多い。そのなかで、斉藤は成長を実感する。
「1年の11月に完膚なきまでに叩きのめされた一学年上の選手と、2年になって引分けることができたんです。それも、自分が攻めて、攻めて、引分けた。そこで自信をつかむことができて、3年時に全国中学校大会で優勝できました。父が亡くなって本気で柔道に取り組んで、目標とした大会でしたので、嬉し泣きをしました」

高校は地元の大阪を離れ、東京の国士舘高校へ進学する。かつて父も汗を流した道場で、斉藤はひたむきに己を磨いていった。1年時からチームの勝利に貢献し、2年時には国際大会でも結果を残していく。

転機となった全日本選手権優勝

転機となった
全日本選手権優勝

国士舘大学へ進学後も、成長速度を上げていく。2年時にワールド柔道ツアー初優勝を飾り、3年時には全日本選手権初優勝を果たす。20歳1ケ月での戴冠は史上3番目の若さであり、史上初の親子優勝でもあった。
「全日本選手権は、他の大会とまったく違います。歴史のある大会で、あの舞台に立つこと自体が誇りであり名誉です。高校3年で初出場したときは、すごい舞台だから楽しもうという気持ちでした。それに対して大学3年時は、あくまでもひとつの大会と位置づけて、雰囲気にのまれないように心がけました。のまれたらもう、崩れてしまうぐらい特殊な大会なので。そこで勝ったことで、自分の人生が大きく変わっていきました」

最終学年となった2023年8月には、2024年夏の国際大会100キロ超級の代表に内定した。父子での代表は柔道史上初となる。
「試合に臨むスタンスが、変わってきています。以前は失うものはないのだから思い切ってやるぞという気持ちでしたが、最近は追う立場から追われる立場になり、プレッシャーのレベルが比較にならないぐらい上がっています。そのなかで、いかに戦うかというのを、いまものすごく経験しています。そういうなかで勝ち続けている人たちは、これからの自分の目標です」

100キロ超級は、2008年の石井慧を最後に日本人の金メダリストが生まれていない。強敵揃いの階級で、斉藤は表彰台の頂点に立つことを求められている。
「自分はずっと100キロ超級なので、難しい階級と思うことはありませんし、そこで戦うのは当たり前のことです。身体が大きな選手がいれば、アスリート体型の選手もいて、本当に一番強い階級だと思いますので、勝ったらめちゃめちゃ嬉しいですね」

プレッシャーはないのだろうか。斉藤は迷わずに答える。
「周りからの期待が、プレッシャーになることはありません。期待してくれている人たちのために、頑張りたい気持ちはありますが。そこはうまく、コントロールできていると思います」

日本の柔道選手は、誰もが「金メダルが目標」と語り、金メダルを逃すと悔し涙をこぼす。世界の2位でも評価されないなかで、本当にプレッシャーを回避することができているのだろうか。
「父は『2位は1回戦負けと同じだ』と言っていました。僕自身も金メダルじゃないと満足できません。柔道選手は、たぶんみんなそうだと思います。それがプレッシャーというよりも、シンプルに相手に勝ちたいし、優勝したい。それだけです」

自らの柔道に対するプライドがある。父の教えが息づく柔道への誇りが、斉藤の支えとなっている。
「自分より大きな選手を相手にするのは得意だと思っています。父が叩き込んでくれた柔道は、身体を使って投げたりするのではなく、しっかり二本持って技をかける柔道です。それは大型の選手が相手でも戦えるやりかたです」

金メダル獲得へ突き進む

金メダル獲得へ突き進む

柔道衣へのこだわりはない。現在着用するミズノ「優勝」に、全幅の信頼を置く。
「自分にとっての柔道衣は、ホントに身体の一部と言っていいものです。使っているとすぐに傷んでしまうものがあるなかで、ミズノさんのものはなかなか傷まない。そこがすごくいいですね」

身体の一部のようなでありながら、気持ちのスイッチを入れることにもつながる。
「柔道衣を着ると、よしっとなります。そして畳へ上がったときに、気持ちがグッと引き締まります」

金メダル獲得へ突き進む

未来の柔道家にアドバイスをもらう。「自分は柔道一家で育ったので、やることが当たり前でしたからねえ」と頭をかきつつも、目の前に子どもがいるかのように優しく語りかけていく。
「これから柔道を始めようとしているみなさんは、怖いイメージを持っているかもしれませんが、まったくそんなことはないです。おとなしい性格の選手もたくさんいます。練習はきついですけど、そこで得るものはとても大きくて、それを試合で十二分に発揮して勝つというのは、ホントに気持ちがいいもの。武道なので礼に始まり礼に終わるところも、しっかり教えてもらえる。相手を敬う気持ちも芽生えていきます」

自身のように世界を目ざす若き柔道家へのメッセージは? 斉藤の表情が引き締まる。高い目標を掲げる以上は、決意や覚悟が必要だということがうかがえる。
「自分もそうでしたが、中学、高校と柔道を続けていくなかで、ものすごくキツいことやツラいことがあります。いまもまさにそう感じています。それはもうずっと付きまとうものですが、そのぶん試合で勝つと本当に嬉しいし、負けたときは地獄のように感じられる。浮き沈みは激しいけれど、何かに本気で取り組むというのはそういうことなのでしょう。色々なことを我慢して、本気で打ち込んでいることは素晴らしいことで、誇りに思ってもいい。いつか努力が実って花開くでしょうし、中途半端ではなくやり切って良かった、という気持ちになるはずです」

斉藤自身は「今夏国際大会での金メダル獲得」を最大のターゲットとして、研鑽を重ねる日々だ。「それに対して突き進んでいるので、その後のことはまったく考えていません」と話す。

ただ、柔道とは人生をかけて向き合っていくつもりだ。世界で戦う21歳の柔道家は、「柔道との結びつきは、切っても切れないものです」と爽やかに語るのだった。

※このインタビューは2023年9月に行いました。
※選手個人の感想です。

斎藤立

斉藤 立

Tatsuru Saito


ジャパンエレベーターサービス
ホールディングス株式会社

柔道家。2002年3月8日生まれ、大阪府出身。父は、ロサンゼルス1984とソウル1988の柔道男子95kg超級で2連覇を達成している故・斉藤仁。全日本柔道男子代表監督を務めたこともある父と3学年上の兄の影響で、斉藤立は小学1年生の時から柔道をはじめる。 階級は男子100kg超級、得意技は体落とし。