ミズノがグライダーを作っていた?知られざる航空機開発の歴史

1906年の創業以来、ミズノはスポーツ用品の販売からスタートし、その後はオーダーメイド製品の提供や製造事業へと領域を広げていきました。野球用具をはじめ、ウエア、ゴルフクラブ、スキー用品などさまざまな製品を手がけ、日本におけるスポーツ文化の発展を支えてきました。

スポーツ界においてミズノが果たしてきた役割は広く知られています。しかし実は、かつてミズノがグライダー※1 を製造していたことはあまり知られていません。

※1 グライダーとは、エンジンを持たず、翼に受ける空気の力を利用して飛ぶ航空機です。飛行機のように自力で推進することはできないため、最初は飛行機で曳航(えいこう)したり、ウインチで引っ張ったりして上空へ上がります。その後は、上昇気流を利用しながら長時間飛行します。

1924年のパリ大会から、ミズノは日本選手へのウエア納入を開始しました。その後、日本人選手の活躍が目立つようになり、1932年のロサンゼルス大会ではミズノ社員の南部忠平が三段跳びで金メダルを獲得。日本のスポーツ界は大きな盛り上がりを見せていました。

そんな中、1940年の国際的なスポーツ大会の東京開催が予定され、その競技種目の一つにグライダーが含まれていました。
さまざまなスポーツの普及に取り組んできたミズノは、この新たな競技への貢献を目指し、グライダー開発に着手します。
1936年には創業30周年を記念してグライダー製造への参入を発表。当時開催された「輝く日本大博覧会」には、グライダー工場の模型も出展されました。

  • 当時の工場の様子
  • 当時の工場の様子

当時の工場の様子

ミズノはスポーツ用品の製造を通じて、高い木工技術力を培っていました。しかし航空機開発については未経験だったため、ドイツから技術者を招き、指導を受けながら研究を進めました。
目標としたのはドイツ製グライダー。初級・中級・高級※2 各機種を試作する計画でしたが、開発は苦難の連続でした。技術者たちは試行錯誤を重ねながら機体づくりに挑みます。
※2 戦前は「高級滑空機」と呼ばれていましたが、戦後は「上級滑空機」の呼称が一般的になりました。

そして開発開始から4年後の1940年(昭和15年)に、「美津濃製グライダー301型ソアラー」が、高度・滞空新記録を樹立しました。

  • 美津濃製グライダー301型ソアラー

    「美津濃製グライダー301型ソアラー」と水野利八

しかしその後、世界情勢の悪化により大会開催は中止となり、グライダー事業も大きな発展には至りませんでした。

  • 当時の広告

当時の広告からは、ミズノが「空のスポーツ」としてグライダーの普及を目指していたことがうかがえます。グライダー事業そのものは採算面で苦戦したとされていますが、この挑戦はミズノのチャレンジ精神を物語るエピソードの一つと言えるでしょう。